@article{oai:kusw.repo.nii.ac.jp:00000307, author = {古瀬, 徳雄}, issue = {2}, journal = {関西福祉大学研究紀要, The Journal of Kansai University of Social Welfare}, month = {Mar}, note = {19世紀後半のパリ万博を動因とした日本美術の影響によってジャポニスムが始まったとされ、それに先立つ、出島での南蛮貿易による美術工芸品を中心とした、閉ざされた政情での日欧交流をプレ・ジャポニスムと言われているが、さらにさかのぼる16世紀に、イエズス会を中心としてヨーロッパでキリシタン大名高山右近についての演劇とオペラ上演が行われた。それが、日本の文化を早期からヨーロッパに紹介することとなり、日本を愛好する人を育てる温床を形成したのではないか。その土壌があればこそ印象派を生み出すことになっていったのではないか。ここには、単なる東洋への異国趣味にとどまらないジャポニスムが存在しているのではないのかという考え方である。それは果たして、真のジャポニスムへと発展していくものであるのかを検証していく。この考察は、ジャポニスム、つまり日本とヨーロッパとの文化的交流の軌跡の真価を明らかにする一つの方策となり得ると考えられる。 まず、ジャポニスムの画期をパリ万博に先立つロンドンでの第一回万国博覧会(1851) 前後を境とし、17世紀から同万博までをプレ・ジャポニスムとし、万博以後をジャポニスムと捉える。 17世紀にヨーロッパ列国の海外、特にアジア諸国に対する植民地政策は、同時にヨーロッパの伝統的文化様式と異なった視覚刺激への魅力を発掘させる契機となった。17世紀中頃からヨーロッパの王侯貴族、財を得た商人等の富裕層は、異文化のエキゾティシズムを求め中国・朝鮮・日本からオランダ東インド会社(VOC)の商人などを通じて、陶磁器をはじめとする美術工芸品、絹織物、家具、什器、香辛料、茶などが大量にヨーロッパに運び込まれた。当時のヨーロッパの製陶技術は品質の高い東洋の磁器に及ばず、輸入に頼る他なかった。さらに陶磁器の表面に描かれている鳥や花の紋様、山や川などの風景、人物の絵に象徴される共通したパターンは、異文化の香りに満ちたオリエンタリズムとなって、彼らを魅了したのである。17世紀末、ルイ14世の時代に収集した家具調度品や工芸品に中国からの渡来品が、シノワズリーの代表的なものである。しかし、これらの渡来品が中国でなく日本の品に独占される事情が起こる。1644年清国が中国を制覇、清の統一後も全国各地で内乱が続発し、オランダの東インド会社は1658~1729年の71年間中国からの陶磁器・茶などを輸入できなくな り、代替として長崎の出島から伊万里焼や美術工芸品が輸出されていく。これが一般的にプレ・ジャポニスムと言われているものである。 本論では、これに右近の演劇やオペラをはじめイエズス会による諸作品が果たしてプレ・ジャポニスムの定義に相当するのかを論じていくが、その前にジャポニスムという言葉の概念の整理をしておく。ジャポニスムは、中国趣味と呼ばれるシノワズリーと同じ様に使われるが、ジャポネズリーとは意味を異にする。ジャポネズリーは、日本的なモティーフを作品に取り込み、文物風俗へのエキゾティックな関心に止まっているのに対して、ジャポニスムは日本美術からヒントを得て美術の様々なレヴェルにおいて新しい視覚表現を追及し、その影響は、絵画、彫刻、版画、工芸、建築、音楽、演劇、文学などから造園、服飾、写真、料理に至るまでの諸例の報告がある。近年ジャポニスムがジャポネズリーを含みこみ、広い意味を定着しつつあるが、厳密な意味で確かめておくために、ジュヌヴィエーブ・ラカンブルの定義を整理し列記する。 (1) 折衷主義のレパートリーのなかに、日本のモティーフを導入すること (2) エキゾティックで自然主義的なモティーフを好んで模倣したもの (3) 日本の洗練された技法の模倣 (4) 日本の美術に見られる原理と方法の分析と応用 今までジャポネズリーと呼ばれていた現象は(1)と(2)にあたる。ジャポニスムは、(1)から(4)の全段階を示すものを指し、この定義を一貫した尺度として提示し、本論を展開する。}, pages = {189--219}, title = {「ジャポニスムの諸相」--日本を題材としたイエズス会劇を中心に}, year = {2000} }