@article{oai:kusw.repo.nii.ac.jp:00000248, author = {有田, 伸弘}, issue = {7}, journal = {関西福祉大学研究紀要, The Journal of Kansai University of Social Welfare}, month = {Mar}, note = {合衆国憲法修正1条「宗教活動の自由条項(The Free Exercise Clause)」は、連邦議会(ならびに州議会)が宗教活動の自由に対して制約を加えることを禁じている。同条項の目的は、世俗の権威(civil authority)による宗教への侵害を禁じることによって「個々人の信教の自由jを確保することにあると考えられている。それ故「特定宗教の、あるいはすべての宗教の宗教的慣行を妨げたり、また…諸宗教問に差別を設けたりするために」、世俗的権威を濫用することは「その負担がたとえ間接的なものにすぎない性質のものであっても禁じられる」といわれる。  そもそも、ここにいう宗教活動とは、どのような活動を意味しているのであろうか。宗教を「人と神との内なる対話jと捉えるならば、宗教活動は「内心領域における精神活動」を意味するに止まり、宗教活動の自由条項も政府が「内心の自由」を直接的あるいは間接的に侵害することを禁じているにすぎないことになる。すなわち、宗教活動の自由条項は「特定の宗教を信仰しているというだけで、個人ならびに集団を処罰したり、差別することは許されないし、また、特定の宗教を信仰するように強制することも許されない」ことを意味することになる。  しかしながら、宗教というものは、信仰という内心領域における精神活動だけではなく、人の生活様式に浸透し、宗教的儀式や祝典さらには信仰実践などの「外面的な行為Jを伴うものであろう。宗教をこのように捉えるならば、宗教活動の自由条項は、単に内心領域における信仰の自由を保障するだけではなく、信仰に結びついたこれらの行為の自由をも保障する趣旨の規定であると解されなければない。日本国憲法第19条「信教の自由」もアメリカ合衆国憲法修正1条「宗教活動の自由」も等しく、こうした外面的な行為の自由をも保障していると一般に解されている。  では、「宗教的行為の自由を保障する」とは「同種の行為であっても、他の動機に基づく行為とは区別して信仰と密接に関係する行為に対しては、何らかの便宜を図る」ということを意味するのであろうか。しかし、信仰に基づく行為に対して「特別の便宜」を認めることは、政府が特定の宗教(あるいはすべての宗教)を有利に扱うことになり、もう一つの宗教関連条項である「国教樹立禁止条項(Establishment Clause) 」と抵触する可能性が生じてくる。両条項とも一般的な見方をすれば、「政府が宗教に干渉あるいは関与してはならない」と解することができ、抵触の可能性はないように思われるが、国教樹立禁止条項からは「政府の宗教的中立性の要求」が導き出され、宗教活動の自由条項からは「宗教的実践に対する便宜の要求」が導き出されると解するならば、両条項の間には抵触の可能性が生じる。  この問題に関しては、本来、「国教樹立禁止条項」及び「宗教活動の自由条項Jの両条項の解釈が問題となるが、本稿では、特に宗教活動の自由条項の問題に焦点を当ててみたい。国民の大多数からは奇異に見える宗教的行為に対して、憲法はどのような保障を与えていると解すべきなのか。建国当初から宗教的多元主義を余儀なくされたアメリカにおいて、アメリカ合衆国連邦最高裁がいかなる解釈を施してきているのか、その歴史的変遷を概観し若干の考察を加えたい。}, pages = {1--12}, title = {アメリカ合衆国における「宗教活動の自由」}, year = {2004} }